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2024.03.20

県劇スタッフリレーコラム№19

鼻濁音のおもいで


劇作家 木下順二さんとの思い出ばなし。
私の劇場での最初の仕事は、現代演劇のビッグイベント「日本劇作家大会2005熊本大会」だ。木下さんが顧問を務めた日本劇作家協会の企画・制作によるものだ。
大会の実行委員長は、当時の県立劇場館長、川本雄三さん。日本経済新聞社文化部の記者として多くの演劇人や文化人と親交を結び、木下さんとも親しかった。
ある日、川本さんと演劇談義に花を咲かせていた時、前職のテレビ局時代に、講演で来熊中の木下さんに取材した話になった。「きみは鼻濁音ができていないね」とインタビュー中に注意され落ち込んだこと。さらに、放送番組のビデオを送ったら直筆の礼状が届き、そこにも「鼻濁音は少しはなおりましたか」と書かれ完全に凹んでしまったこと。
私が川本さんに「木下さんの鼻濁音への執着は、熊本に転校してきた小学生時代に鼻にかかった鼻濁音の東京弁がおかしいとからかわれ、そのことが心の傷になり、鼻濁音ができない私に仕返しなさったのではないでしょうか」と伝えると、「その通り、その通り」と笑いながら納得してくださった。
そんな思い出のある川本さんが県立劇場を退任なさった晩秋に、木下さんが亡くなられた。ご本人の遺志により葬儀も追悼の会も行われなかった。故人と最も縁の深かった劇団民芸が追悼公演として「沖縄」を上演した。川本さんが、公演パンフレットに私のエピソードを取り上げ、《木下順二さんと「鼻濁音の復讐」》という題で追悼文をだされた。送ってくださったパンフレットには、有名な俳優さんも鼻濁音咎めを受けたエピソードが語られていた。木下さんは、ことばに厳格で、なかでも、とりわけうるさかったのが鼻濁音だったと判明、私だけじゃなかったんだとなんだかほっとした。
今年の8月2日は木下順二さんの生誕110年。その年に思い出されたのは何かのご縁なのか、木下さんが拘られた鼻濁音を学びなおしてみよう。

施設サービスグループ
嶺 浩子[みね ひろこ]

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