2025.09.20
【フルVer】特別対談 劇作家・チェルフィッチュ主宰 岡田利規×熊本県立劇場館長 姜尚中
Special feature 特別対談
日時:2025.8.2(土)
場所:熊本県立劇場 演劇ホール舞台上舞台、ホワイエ
熊本県立劇場の舞台上につくられた約150人収容の観客席と舞台セット。演じる者と観る者が同じステージ上で対峙する、いつもとは違うホールの空間で『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』は上演されました。2025年8月2日、3日の2日間の熊本公演を皮切りに、今年は全国3カ所で上演された本公演。日本語を母語としない俳優が、ネイティブ言語ではない日本語で演じる演劇作品を手がけた劇作家の岡田利規さんと、県立劇場の姜尚中館長が、言語の本質をテーマに語り合いました。紙面には到底入りきらない対談のフルバージョンをぜひご覧ください。
宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓
姜 今日はもう、大変なものを見てしまった。
岡田 本当ですか、楽しんでいただけましたか。
姜 本当に考えさせられました。最初はね、正直言うとどのくらい時間かかるかなと思ってたんですけど。やっぱり岡田ワールドに騙されたのかな。あっという間に時間が経ちました。
岡田 よかったです。この公演をどう見ていらっしゃるかな、と思って。
姜 いろいろ考えさせられました。今この時代、分断と対立の時代になるので。海外でもかなり反響を呼んでるんじゃないですか。
岡田 いつも作品をつくるとき、日本のお客さんのことだけ考えているわけではないんです。でも、この作品は例外で、むしろ日本のお客さんに、つまり日本語で演じられていることが作品にとって重要なことで。そのことが一番刺さるのは、日本語ネイティブの観客だと思うので、そういう気持ちでつくりました。
姜 出ている人の名前が、例えばサザレイシさんとか、非常に重要な役ですけど、それは海外でやると、サザレイシがなにかわからないですよね。
岡田 そうですね。あの名前の意味なんかも日本の文化の文脈じゃないと、ああいう名前を付けることが分からないじゃないですか。
姜 岡田さんが大江健三郎賞に選ばれた作品(「わたしたちに許された特別な時間の終わり」)を観たときに、もうびっくり仰天した。あれだけのシリアスなテーマを、ラブホテルを舞台にするって、ちょっと誰も思いつかなかったと思って。大江さんも読んでてびっくりしたんじゃないですか。発想が全然違うというか。今回の「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」を観て、岡田さんってもしかしたら宇宙人じゃないかなと思うくらい。言語っていうのは、必ず言葉を分節化するから、違いを入れますよね。それは差別につながる面もあって、今回のこのテーマは言語、無言語の世界を、地球上ではもう無理だから、宇宙に求めてという。その大胆な飛躍にちょっとびっくりしました。
岡田 そうですよね。だいぶ無茶苦茶じゃないですか、宇宙を舞台にとかって。この作品をつくるにあたって、そもそもはネイティブじゃない人の日本語が演劇の中で発話されるっていうことがほとんどないので、そのことをつまんないなと思っていたんです。そして、ネイティブな日本語の俳優の舞台上での発話が、こういうセリフがあったら、舞台上でセリフとして言うにはこういうイントネーションで言うもの、みたいなのがなんとなく決まっていくんですよね。それを言ってる本人もそう思うし、聞いてる側もまあそんな感じだよねっていう予定調和があって。これはちっともおもしろくないなって思うことがあるんですよね。そういう前提がネイティブじゃない人にはないので、むしろそういう人の日本語の方が聞いていて、入ってくる。つまり、演劇における日本語の発話ってものがつまんないところで固まっちゃってるものを、撹乱したいということから始まったんです。それで日本語ネイティブではない俳優とやろうってことになって。そういう俳優とやるときに、どういう設定だとおもしろいだろうなって、そういう順序で考えたんです。例えば日本を舞台にしちゃうと、ネイティブじゃない人っていうのが、例えば留学生ですとか、日本に仕事に来ててコンビニで働いてますとか、そういう設定にしちゃいそうな気がして。それをすごくつまんないと思ったから、日本を舞台にするのをやめようと思ったんです。じゃあ日本以外のどこの地域とかだったらいいのかなって次に考えたんですけど、別に日本じゃなかったら、どこの地域だったらいいっていうのもないなぁと思って。それで、地球にはいられないなって思ったんですよね。で、もうこれ宇宙に行くしかないなっていうことで、こういう作品になりました。
姜 もしかしてこの宇宙船っていうのは、ひとつのアレゴリー(寓意)みたいなものかなと、ノアの箱舟にも思えるし。それから我々世代だと「2001年宇宙の旅」。結局あの映画は、人類の始まりからで。あれがある種の神なのかどうかわかりませんけども。我々は地上であると、起源神話にどうしても傾いてしまう。言語の起源はどこかとかね。だからよく歴史の中でも縄文へ回帰しなきゃいけないとか。劇中で隊員のオニツカさんが、地球の音楽じゃない音楽が聴きたいと言っていた。で、その理由を聞かれたときに、ノスタルジーが嫌だという。それは起源を探すもの、ルーツもですね。ルーツ探しや起源っていうのは、僕はフィクションだと思ってるんですよ。ところが我々の日常生活の中には、この親族の、祖先のという考え方がある。東アジアの中でも特に韓国、中国、日本もそれが強いので。だから宇宙に設定することで起源神話を断ち切ることができるし、そこがものすごく感動しました。
岡田 そこをキャッチしてくれたこと、すごく嬉しいです。まあ確かに自ずとそうなるものだったなと思います。このネイティブじゃない人と日本語の演劇をつくるっていうプロジェクトは、結局そのオリジナルの日本語というか、その正しさや起源っていうものが捏造されるものっていうことに触れないことはできないようなものになるんで。
姜 さきほど予定調和とおっしゃっていましたが、これは僕は評価がアンビバレントなんですけど。例えば、ある劇作家の方と話したときに、言語の問題から身体の動きに至るのは、結局は歌舞伎のような様式化されたものの良さに、回帰したいとおっしゃっていて。僕も歌舞伎は好きなんですけど。しかし一方でそこではさっきおっしゃったその発話もある程度様式化されてるんですよね。今回のこの宇宙船は大変なチャレンジになっているんで、そういう発想は昔から岡田さんにあったんですか。
岡田 基本的に僕の考え方は、様式を嫌うというか、それを壊したいというか、そんなんじゃないところでやりたいということがあります。でも、それがうまくいったと自分で感じられると、結局もっと深く追求したくなり、これがイコールで様式化につながってくるんです。そういうことをやっていくと、例えばそれは自分自身の様式の追求ってことのみならず、すでにある他の様式っていうものが、その自分の追求のレファレンスになったりするんで。そうすると、様式っていうのも悪くないというか、すごくいい重要なものなんだなみたいに、自分のそれの見方とかが変わってくるんですよね。そうやって自分が思ってしまうことへの葛藤みたいなものが生じてきたりして。自分は様式なんてクソくらえみたいなふうに始めてたはずなのに、様式いいって思ってる。そういう葛藤がいつもあって。さきほど姜さんがアンビバレントっておっしゃいましたけど、そういう葛藤とかアンビバレントっていうのが常に自分の中にあるってこと自体は悪いことじゃないと思います。自分の中でこれだって、そこで落ち着いちゃうことは一番ダメなことだと思うんです。
姜 今のを分かりやすい言葉で言うと、イノベーションということですね。年を重ねるにつれて、そのイノベーションに疲れて、安定したもの、例えば様式だったり、あるいは自分が新しいものと思ってずっと追求してきたもの、その足元にあった古来からのとか、伝統があるものとか。そういうものに新しい価値を見出すようなアーティストが結構多いと思うんですね。それは日本の場合ものすごく洗練されている。そういう点では、岡田さんの演出作品オペラ「夕鶴」はある程度様式化されたものですけど、最後に(主人公の)つうが壁を打ち破っていくときにね、もう僕はもう唖然として、すごいと思った。あれはある種の脱構築です。今回の作品は、岡田さんがオリジナルでつくられたものですよね。いつ頃からその発想がわいてきたのですか。
岡田 とにかく演劇ってものを、ちょっとでも前に進めていきたいというか。自分の中で試行錯誤していきたいという時に、そのひとつとして日本語の発話のクオリティを上げたいと。クオリティっていうのは、イントネーションが綺麗とかそういうことじゃなくて、舞台上で発されている言葉が、聞いていて入ってくること。当たり前のことなんだけれども、その当たり前のことがそんなに起こってないっていうのが僕の認識で、そこを変えたいと思っている。そこから発想して、やりたいと思ったんですよね。さっきお話ししたように、最初はどういう話を書けばいいのか全然わからなかったんですけど、途中でSFにするしかないなってことになり。その中で最初からこれは絶対やりたいと思ってたことっていうのは、ある種の挑発だったんですよ。例えば英語は、ネイティブじゃない人がしゃべっていることを聞く経験がもっとあると思うんですね。英語がネイティブの人たちにとっても。でも、ネイティブじゃない日本語を聞くっていう経験は、日本語ネイティブ話者にとっては、言ってみればウブだと思うんですよ。そのウブさを挑発することをやりたいなって思いました。宇宙船の乗組員は、これは僕の狙いではあるけれど、日本人だとは一言も言ってないんですよ。もっと言うと、宇宙船内で話されている言葉が、日本語だとも言ってないんです。これは演劇だからできることです。翻訳劇っていうのがあって、例えばシェイクスピアの「ハムレット」だと、もともと書かれているのは英語なんですけど、日本語で上演されることは普通にあって、それを私たちが舞台で観るときに、このハムレットって人は日本語がしゃべれる人なんだなと思って観ている人は多分一人もいなくて。すごい複雑なことなんですけど、誤解しないで、みんな日本語の「ハムレット」を観るっていうことが起こる。不思議なことが演劇ってできちゃうので、その力を借りたいって思ったんですよね。そういう挑発ですね。
姜 それは感じました。挑発されていると。最初は舞台に立っている方が、いわゆる素人的な発話だったので。演劇であれば、発声練習から始まって、さっきおっしゃっていたイントネーションとか、そういうものから始まるものですが。だから今回の舞台は、最初は散文的な感じがしたんです。でもだんだんとそれが心地よくなって、あっという間に時間が過ぎちゃった。最初10分、20分かなりこれ時間かかるのかなとか考えていたけど、だんだんとその世界に引き込まれる。岡田さんが演出される場合には、舞台上のアクター、アクトレスにふさわしい喋り方とか、それは一切ないんですよね。
岡田 こういう風に喋ってほしい、こういうイントネーションでっていうようなことは言わないです。この作品以外でも、出演者が全員ネイティブ日本語話者の時も言わないです。そのかわりに、俳優が舞台に立っているときに、どういう想像、イマジネーションを持っているか、どうやってそれと付き合っているかっていうことを問題にしてクリエーションしています。今回の作品で、ネイティブじゃない人たちとつくるときに、そのネイティブじゃないから発音をもっとこうした方がいいとか、そういうことを言いたくなかったんですよ。それはすごくつまんないと思っているので。イマジネーションでつくるってことは普段からやっているので、それをやればいいなってと気づいて。それでこういうプロジェクトを自分はできるなって思えたんです。
姜 おそらく初めて観る方は、この舞台上の人が、もう完全なディレッタント(素人)に思えちゃうと思うんですね。普通は舞台に立っている人はプロで、こういう喋り方をして、こういうイントネーションになっている。それが一切ないというところが、最初はものすごく戸惑いを持つ。観ていて、不気味なところがある。例えば、ライトを修理するところで、そこからなんかすごいことが起きるんじゃないかとかね。これから何か起きるのかと、不気味なものが。それは岡田さんが書いたりやるものの中で自然にでてくるものですか。それとも挑発的な、異化作用みたいなものをつくり出そうということなんですか。
岡田 異化作用を起こしたいってことは基本的にあります。それで不気味ってことを自分なりに翻訳すると、決まりきったイントネーションを含め、演技ってこういうもんなんだなっていうような予定調和に収まっていると、その内容がどんなに悲しかったり、凄惨だったりしても、ある意味で安心して観られるんです。でもそれを心の底からつまんないと思っていて。それって内容がいくら悲しくて、ひどい、残酷だったりしても、そこが収まってたら、全然残酷でも悲しくもないと思う。だからそこを崩さないと、ひっぺがしていかないと。そういう僕が、いい演技というか、いい作品としてお見せしてるものが不気味なものになっているっていうのは、おそらくそういうことかと。
姜 僕個人としては動画配信サービスに慣れている人たちは、どんなにひどいものを観ても、着地点は自分の道を再確認できるような、安心できるわかりやすさがあると思う。僕はよく学生から聞かれるんです。先生、もうちょっと分かりやすく話してくださいって。自分では分かりやすく言ってるつもりです。その分かりやすさっていうのは何なんだろうっていうことを当人が疑問に思ったらいいと思うんですよ。今回の岡田さんの舞台劇は、観客は200人とか300人であって、場合によってはそれを映像で、1,500人入るところで、見てもいいはずです。劇場の興行収入からすると、わかりやすいところに人が集まるわけです。この現実が変わらないということが最大の問題点じゃないですか。結局、その演劇とか音楽に何を求めるかっていうと、今の判断ではわかりやすく、自分の定型化されたものを再確認したいという、オーディエンスが多いんじゃないかと思うんですよ。そういうオーディエンスに対して、岡田さんは挑発したいと。これはもう、岡田ワールドとあえて言いますが、岡田さんの原点でしょうか。
岡田 そうです。僕にとっては、自分が受け手として、どんな形式の芸術でも、観る前と観た後で、「自分が変わったな」と感じられたときによかったと思うんです。どんなに号泣しても自分が全然変わっていないということもあって。僕はそれ観てめっちゃ泣いてるんですけど、でも面白くないんですよ。僕は自分が変わることを求めているんです。わかりやすいっていうのは、これちょっと雑な言い換えだと思いますけど、自分がすでに知っていることを確認するっていうことなんです
姜 それは、岡田さんがアーティストとして、そういう世界を目指される時のひとつの原点でしょうか。
岡田 そうなんでしょうね。僕は演劇をやってますけど、若い頃は演劇を好きって思ったことがなくて。文学は好きでした。映画も好きでした。今も好きなんですけど。それと同じように演劇が好きだったのかっていうと、全然そんなことなくて。だからこそ、違和感がすごく大きかったんですよね。その違和感はなぜなのか、自分にとっていいと思える演劇を追求するってことは、むしろ自分が好きって思ったことのない演劇だからしやすかったんだろうと思います。もし映画の道に進んだら、自分には好きなものがいっぱいあるので、それっぽい感じでやれば、これいいじゃないと思えるし。でもそれだと大したことないじゃないですか。今言ったようなことをあらかじめ考えて演劇を進んだわけじゃないんですけど、なぜか今演劇をやっている。振り返ってみると、そういうことだったような気がしているので。演劇をやることはラッキーな選択だったな、と。
姜 よくコミュニケーション能力があるかどうかというのが、大学で育てられる非常に大きな能力の一つになっているんですね。僕はそのコミュニケーション能力っていうのは、本当にそんなに簡単なもんなんだろうかという気持ちがあります。岡田さんから見て今のこの世界は、いろんな意味で言語で分節化される以上に、コンフリクトが広くなっている部分もあると思うんですね。もちろん、言語を介さない身体運動ももちろんあるんですけれども、岡田さんから見て、言葉というのはどういう存在なのか。
例えば、個人的には、僕は高校生の頃ちょっと吃音になったんです。それで、人前で喋るのが苦手で。ところがあるときから言葉の快感を味わうわけですね。岡田さんにとって物を書いたり、演劇をつくったり、必ず言葉の世界がある。今回の作品では、この言葉、言語についてのすごい深いメッセージを伺ったような気がして。それはずっとテーマとしてあったんですか。
岡田 言葉っていうのは両義的だと思うんですよ。つまり、つなげることと分断させてしまうことを言葉自体は持っている。でも僕はやっぱり言葉を使うしかないって思うんです。それは消去法ではなく、言葉を信じているから。言葉を信じて言葉を使って伝えようとする。それがかえって分断を起こすっていう現実も厳然としてあって。言葉を使うことによって、この今ある問題を解決できるかっていうことを本当に真面目に考えると、それによってかえって分断を助長することもあるんですよね。それは、わかってるんですよ。でも自分は言葉を使いたい、言葉を書きたくて、言葉と付き合っていたい。自分の欲望、欲求として、上にあるものなんです。
姜 言語というものに対する根本的な信頼があるんですね。最近ちょっと問題だなと思っているのは、「感動」ということ。本気度があるかとか、やる気があるかとか、そういうもの。言語でしか伝わらないものをどこかに置いてきちゃって、なんかこう念力を唱えるようなそういう世界が一方であって。かつてはそういうロマン主義的なものの危うさみたいなのがあったと思うんですが。今のこの時代には、どこかで言語を最後まで信じきれる人と、そうじゃなくて感動に重きをおく人とがいる気がして、それはどうですか。
岡田 そういうことは、考えたことなかったですけど。でも今って、言語よりも感情の方が絶対に強いですよね。人が感情で動くっていうのは、言葉よりも感情を信じるって。そうなってくると、ある種、その場の感情よりも言葉っていうのをより信じられる人は、一定以上のネガティブ・ケイパビリティ(不確実性などを受け入れる力)がないと、そういうことができないみたいな。それって結局能力みたいな、一定以上のものを要求されるみたいになっちゃうっていうか。そうなのかもしれないんですけど、でもそれで今問題が起こってて。でも簡単じゃないから、ネガティブ・ケイパビリティを持つっていうのは。どうしたらいいんですかそれは。
姜 それを岡田さんからぜひ何か出してほしいですね。
岡田 僕は言葉を信じて、その言葉を使ってやるっていうことはできると思っているんですよ。ただそれによって分断を解決するっていうイメージをあまり持てずにいます。例えば、その言葉を使ってある表現をするということが、自分にとってよくできればできるほど、むしろ分断を助長しちゃうんじゃないか。結果的に、そうしたくてやってるわけじゃないんですけども。そういうことはイメージできるんですよね。できてしまうんですけど、どうしたらいいのかがわからなくて。自分を納得させるなにかを持てないんですよね。それを本当に解決したかったら、それこそもっとわかりやすく書く。でも、どうしてもそこに行けないんですよね。
姜 それはアンビバレントだと思います。今回の作品の登場人物の中で音楽についての議論がありますね。言語は発話としては音だから、音は必ず空気があって、空気がない世界で、言葉っていうのは伝わるのかどうかと考えて、多分それは難しいとなる。そういうのをサザレイシさんが発するっていうのはかなりポイントなんですか。
岡田 そうですね。サザレイシさんは、文字通りエイリアンなんですけど。いろんな知覚の仕方とか何もかもが違うっていう、極端なエイリアンをネイティブの日本語を話す人が演じています。それでマジョリティとマイノリティの構図をひっくり返したかったっていうのがあるんですよね。音っていうのは人間にとっての可聴域のことなので、波長でしかないとか、そういうそもそものことを改めて、普通考えないことを考えました。でも、宇宙に行くとそもそも考えないことを考えるコンディションがあるじゃないですか。重力がない、空気がないとか。そういうことを考えてみたかった。宇宙を舞台に書くと、書いている時の自分の想像力もそういうところに行くので、それはよかったんだと思います。
姜 この作品は、海外ではどこでやられたのですか。
岡田 海外での公演は、ソウルで日本語による上演をやっています。この作品の初演が2年前で、日本では東京と京都で。その年のうちに中国にも行ったかな。昨年はブリュッセルとソウルとパリで上演し、日本ではやっていなかった。今回の熊本公演は久しぶりの日本公演なんです。だからすごい楽しみで、この作品は日本語でやること、お客さんが日本語がわかるってことが結構重要なので、今回それを久しぶりにできるのがすごい嬉しいです。
姜 県劇のシアターアジアの場合、音楽がどうしてもメインになってしまう。言葉による演劇がもうちょっと盛んになってほしい。その点はぜひ、岡田さんにも。台湾とか、ベトナムとか、いろんなところでね、お互いの芸術をですね。アジアの現代演劇をわれわれも知りませんし。
岡田 アジアを含めてどうやって他の地域で上演していくかということは考えたいと思っているので。アジア、韓国とか台湾などのアーティスト、演出家など、東京にいろんな人がきているので。彼らも日本でやりたいと思っているので、その辺がうまくオーガニックに行くといいですね。
姜 最後に岡田さんが、今回の作品に込めた、伝えたいことをお願いします。
岡田 姜さんもおっしゃいましたが、最初結構びっくりすると思います。自分が期待してた、あらかじめ持ってる演劇のイメージとなんか違うみたいなところがあるかと。この作品は言葉についての作品です。言葉を巡る、言葉が生む差別のようなことも起こる。それが同時に、見てる自分の中でも多分起こると思うんです。例えば、東京の公演で起こってたことですけど、あるセリフを言った、ネイティブじゃない俳優に対して笑いが起こったんですね。。そこで笑ったとき、あるいは別の人が笑っているのを聞いたとき、ちょっと待って、今の笑いはなんでってなる。もしかしたらその人の日本語がネイティブ発音じゃなくて、つたない日本語を聞いて笑ったんだろうか、みたいなことが起こると、ある種のモヤッというものが起こるんです。でも、それはそういうことを経験したり、そういうことについて考えることや、巡らせることが、僕は大事な価値のあることだと思うんですよね。そういうことができる作品であると思うんです。だから、作品を単に受け取るってだけじゃなくて、その上演の場で自分が思ったことは、その作品そのものと違うところからの連想のようなものでも、僕は全部鑑賞体験だと思うんです。そういう体験をしていただけたら、僕はものすごく嬉しいです。

